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人生朝露

人生朝露

禅宗と荘子。

荘子です。
まず、いきなりですが、荘子が亡くなる直前の話を。

荘子将死、弟子欲厚葬之。荘子曰「吾以天地為棺槨、以日月為連璧、星辰為珠機、萬物為斉送。吾葬具豈不備邪、何以加此。」弟子曰「吾恐烏鳶之食夫子也。」荘子曰「在上為烏鳶食,在下為螻蟻食、奪彼與此、何其偏也。」(「荘子」雑篇 列禦寇三十二)

→ 荘子が臨終を迎える間際、弟子たちは彼を手厚く葬ろうと考えていた。しかし、荘子はこう言った。「私は、天地を棺とし、太陽と月を一対の璧として、天空の星々を飾りにすれば葬式などはいらない。死にゆく私への贈物はこの世界の万物だ。何もしなくても私の葬儀の準備は終わっている。何が他に要るというのか?」
弟子は答えて「亡くなっても何もしないとあっては、あなたの死体がカラスやトビに食べられてしまいます。私たちはそれを心配しているのです。」
荘子は言った。「空からはカラスやトビについばまれ、地上ではオケラやアリに齧られればいい。この期に及んで食われる相手を選り好みはしないよ。」

・・・「荘子」という書物は、荘子個人が書いたもののだけでなく、相当数、彼らの弟子や門人たちが書いたものがあるわけですが、雑篇あたりになると、死ぬ間際の荘子の言葉まで書かれているんです。明らかに後の荘子学派の手によるものであるわけです。これも寓話の可能性がありますが、紀元前の中国人の死生観の一つです。鳥葬を認めるんですな。

聖なるガンジス。
しかし、荘子の考え方というのは、本当にインド人に似ています。
カラスやトンビに食われていいなんていうのは、インドやチベットの人々が今でもやっていることと変わりません。

万物は斉しく同じという斉物論篇にある「天地與我並生、而萬物與我為一」(天地も我れと並び生じて、万物も我れと一たり)という言葉や、「是亦彼也、彼亦是也」(是もまた彼なり、彼もまた是なりという言葉は、ウパニシャッド哲学における一元論とまさに斉同ですよ。いわゆる「梵我一如」というヤツですな。

ブラフマン(宇宙の原理)とアートマン(真我)。
天地と我。
Outer SpaceとInner Space。

外なる原理と内なる原理が同じであるというのは、紀元前のインド人も中国人も考えているわけです。これは、やっぱり、叡智だと思いますよ。ものすごく分かりやすくいうと「かめはめ波(内気功)」と「元気玉(外気功)」ですが(笑)。

さて、そのインドと中国の思想の出会いから、双方の応酬があった後に老荘思想という考えが仏教と混和していくようになります。最初はそれこそ「華」と「夷」という関係でとらえられてきた「道」と「仏」の関係が、お互いに侵食していって共存していくんですな。・・感覚的には老子は大乗的なんだけど、荘子は小乗的です。

仏教が老荘思想と同化していく中で、インドでは見られない発想がでてきます。
例えば、「山川草木悉皆成仏」という説。今でも、

「生きとし生けるものは全て仏だ」

みたいな考えはありますが、これは、インドにはあまり見られない思想なんです。荊渓湛然という唐の時代のお坊さんあたりが言い出したらしい考えで、中国産なんですよ。これを遣唐使の留学生、最澄が取り入れて日本に広まったようです。

で、これに似た考えが紀元前の荘子にもあるんですよ。ま、そりゃ、自然と共にの荘子なので、あって当たり前なんですが、「馬蹄篇」にあります。

「故至徳之世、其行填填、其視顛顛。当是時也、山無蹊隧、澤無舟梁。萬物群生、連属其郷。禽獣成群、草木遂長。是故禽獣可係羈而遊、烏鵲之巣可攀援而閲。夫至徳之世、同與禽獣居、族與萬物並、悪乎知君子小人哉。同乎無知、其徳不離。同乎無欲、是謂素樸。素樸而民性得矣。」

→「ゆえに、至徳の世というのは、束縛もなく人の行いは穏やかで、人々の瞳は明るい。かつての至徳の世では、山には道も拓かれず、川にも船は無かった。万物は群生して、棲み分けをする必要もなかった。動物たちは群れを成し、草木は伸びやかに成長した。ゆえに、動物を紐に繋いで共に遊ぶことが出来たし、木によじ登って、カササギの巣をのぞいてみることができた。その至徳の世においては、動物たちと同じ場所に住み、万物と並んで暮らしていた。そこに君子や小人なんているはずがない。人々はさもしい知識も持たず、徳が心から離れず、無欲でいた。これを「素樸(そぼく)」という。素樸だからこそこそ民は安定する。」

・・・そもそも、この「馬蹄篇」というのは、馬に蹄鉄をしたり、焼印したり、酷使したりして馬が死んでしまうことを嘆いている話でして、あの時代に馬に対して憐憫の情を持つというのが荘子の只者ではないと感嘆するところです。動物愛護がまず「馬」から始まるのは「生類憐みの令」と同じですな。かつて、人間は禽獣と共にあったということを「至徳の世」、すなわち理想の世界であったとするわけです。しかし、「是故禽獣可係羈而遊、烏鵲之巣可攀援而閲」という部分は鳥肌モノですな。犬に縄をつけて、ツバメの巣とかを観察するという現代人の「散歩」と変わらんし、鳥の巣を覗き込むなんていうのは、

天空の城 ラピュタ。
ロボット兵の元ネタなのでは?

「牛馬に四本の足がある。これを天という。馬に手綱を付けたり、牛の鼻輪を通すために穴をあけることを人(人為)という。だから昔の人は言ったのだよ『人(人為)を以って天を滅ぼすな。故意に命を滅ぼすな。名利のために徳を失うな。』とね。この考えを慎み深く守ること、これが人間の本性に立ち戻るということだ。」(「荘子」外篇 秋水十七)

バルス。
人為によって天を滅ぼしてはならんのです。滅びるべきは人為の方だと。

荘子の動物についての表現は実に面白いものがあります。「吾れ天地の間に在るは、猶お小石小木の大山に在るがごとし」などというのも「生きとし生けるものは全て仏だ」という「山川草木悉皆成仏」という考えに近いです。鳥獣と共に生きるという思想は、諸子百家ではおそらく荘子だけでしょうし、「山川草木悉皆成仏」という考えが、荘子の影響である可能性もあると思います。荊渓湛然は、元は儒者だし、どっちかというと「道」の方の人だから。

で、ほぼ中国化した仏教の宗派の代表格と言えば、禅宗と浄土宗でありましょう。特に禅においては、今でも荘子の話は普通に引用されています。私も「胡蝶の夢」とかはお坊さんに教わりましたよ。

達磨大師。
禅宗においては、達磨さんの教えと、荘子の哲学が並立しているんです。

前にも書いた、
仲尼蹴然曰「何謂坐忘?」顔回曰「堕肢體、黜聡明、離形去知、同於大通、此謂坐忘。」仲尼曰「同則無好也、化則無常也。而果其賢乎。丘也請従而後也。」(「荘子」大宗師篇)

→ 孔子はハッとして、「坐忘というのは何かね?」顔回曰く「手足を楽にして、知識を空にして、一切の知覚から離れて、大道と同化します。これを坐忘といいます。」 孔子は言った「大道と同じになれば物事の好き嫌いで判断することがなくなる。無常の世界で思い悩むこともなくなる。顔回よ、そなたは賢者だ。私はお前から教えを請わなくてはならなくなった。」

という「荘子」の中の「坐忘」という寓話にもあるように、荘子の中に「禅」に近い発想があります。(ちなみに、この話は完全に寓話で、孔子の言葉ではありません。仁義を忘れることを孔子が認めるわけがない(笑)。あくまでも孔子の作り上げた仁義や礼楽という価値観から外れるための坐忘ということです。)老荘思想の「無」の概念と仏教における「空」の概念の驚くべき近似性も要因であったと思われます。まさに、通る「道」は違っていても、目指す場所は斉同なんでありましょう。

「荘子」を読んで、これは荘子の哲学が仏教に影響を与えているな、と思われる箇所があるんですよ。禅宗には「不立文字(ふりゅうもんじ)」というものがあります。文字に出来ない考えということです。一つは禅を実践することで、言葉ではなくて身体で理解するということなんですが、もう一つ、哲学的な意味で「言葉では伝わらない」というような意味もあると思います。分かりやすい例としては、江戸時代の博多にいた禅宗のお坊さん「仙涯(せんがい 正しくはさんずいなし)さん」の絵があります。

無題。

これが、「不立文字」というヤツです。
この絵は本来は「無題」です。ところが、この絵の所有者、出光興産の創業者・出光佐三さんが「宇宙」と解釈しました。で、今は「The Universe」と題して紹介されることもありますが、やはりこれは「無題」が正しいと思います。なぜなら、不立文字だから。こういうものは言葉にすると意味は無いんです。ちょうど、ポップアートを鑑賞するように観ればいいんです。あえて文字にするならば、今の自分にとっては、「□△○」は「地・人・天」なのかな。もちろん正解ではないでしょう。

この「不立文字」考え方は、おそらく荘子のものだと思われます。

無始曰「道不可聞、聞而非也。道不可見、見而非也。道不可言、言而非也。知形形之不形乎?道不當名。」無始曰「有問道而應之者、不知道也。雖問道者、亦未聞道。道無問、問無應。」(「荘子」外篇 知北遊二十二)

→「道とは耳で聞くことのできないもので、聞いてしまったものはすでに道ではない。道は目で見ることのできないもので、見てしまったものはすでに道ではない。道はまた、言葉に言い表すことのできないもので、言葉に表してしまうとすでにそれは道ではない。万物に形を与えながらそれ自身は形のないものをどう知覚できるのか?道に当たる名前などない。」さらに無始は言う。「道について尋ねられてこれを答える者は、道を知らないのだ。道を尋ねている者の方でも、道を聞くことはできない。道というのは質問することもできず、それに応じることもできないものなのだ。」

・・・「初めに言葉ありき」というプラトンやアリストテレスのイデア論にも通じる、荘子の「道」についての概念であります。老子も「道は常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。」と言っています。最も大切なものは言葉で伝えられないんです。

そういえば、モーゼの十戒にも「汝は神・主の名をみだりに唱えてはならない。」とありますし。YHWH(ヤハウエ)って、発音できないようにしてありますからね。ローマ法王は今でも「発音するな」とお触れを出すようです。こういう考え方をもっとも簡潔に書いているのが「荘子」です。

荘子の哲学が、いかに凄いものなのか、という一端を書きました。しかし、気付かないうちに、本当に気付かないうちに、荘子の思考を日本人は享受しているんですよ。


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